5月28日に荻窪いちべえに於いて漫画家で日本酒評論家の高瀬斉先生による日本酒講座第2回があり、それに参加しました。5月の講座は「お江戸の酒合戦」。大酒呑みの呑み対決についてです。その概要は次の通りです。参考資料は当日配布されたテキストです。
平安の酒飲み大会 911年(延喜11年)
宇多法皇の離宮・亭子院の御前試合、
「大戸をよんで、賜うに醇酒をもってした」 大戸・・・・上戸の意
一人づつ酒を呑み、どこまで呑めるか競う。多分、一気呑みだろう
20杯を限度に呑み始めたが、6,7巡するうちに満座酩酊状態に。10杯で止めにする。ただ一人乱れなかった藤原伊衡(これひら)が駿馬を賜る。盃の容量を一杯5合とすると一人3升分か?
大師河原の酒合戦 1649年(慶安2年)
泰平を身にしみて味わうようになった時代
「水鳥記」(水鳥とはお酒を意味する)に記された、大蛇丸底深×地黄坊樽次の酒合戦。自身も大酒呑みだが、それぞれ大酒呑みの部下を従えて酒飲み合戦を交える。名前は水鳥名と言い大酒呑みを名で表す。
大蛇丸底深・・・・本名 池上太郎衛門幸広、江戸初期に川崎大師河原に移住し開墾、実績を上げる。家宝の酒盃(朱漆塗りで内面に金蒔絵で竜が描かれている、一升五合入り)を毎晩床についてから10杯呑んでいたと言う。→寝酒の盃
地黄坊樽次・・・・本名 茨木春朔、水鳥名の「地黄」とは薬の事で鉄気を嫌う、自分も鉄気・刀を嫌って坊主になった。酒呑みの「掟」を定めた。乱酒厳禁。喧嘩口論禁止、寝上戸は認める等々。部下には武士、商人、医者、学者、僧侶など身分のあるものが多い。
底深のいとこで山下作内請安が地黄坊に酒合戦を挑まれて負けたことが、発端。地黄坊が底深が居にしている大師河原まで攻め入る。途中、神田明神に寄っている。神田=燗だの意。
底深が途中で待ち伏せするが樽次に見破られ、酒合戦が始まる。樽次側が勝ち底深の家まで攻め入る。
底深が病に倒れ酒合戦ができなくなる。樽次が神社で祈念すると底深の病が治る。
合戦の結果だが、最終的に二人が和ぼくした,樽次側の勝利等諸説有
千住の酒合戦 1815年(文化12年) 太田南畝「後水鳥記」
千住の飛脚問屋、中村六右衛門の還暦祝い、文人,画人,俳人等の来賓を招く。上戸と思う人は誰でも参加できたが、狂花(怒り上戸)や病葉(眠り上戸)など悪酒呑みは一切お断り。
盃は五合入りの「江島盃」から三升入り「丹頂鶴盃」まで6種。酒は伊丹の上醸「玉縁」「上竹」、酒だけでなく肴も供された。当時きれいだった綾瀬川の鯉など。
参加者を東西に分けて飲み比べをさせる。一升以上呑んだ者が東西それぞれ20数名ずつ。
両国柳橋「万八楼」の大酒大食大会 1817年(文化14年)
一位の鯉屋利兵衛・・・・一斗九升五合飲みその場で倒れたが、数時間後目を覚まし水を茶碗で17杯飲んだ。
二、三升飲んだ者が三、四十人いたと言う。本当にそんなに飲んだだろうか?嘘じゃないか→嘘の万八→嘘っぱち の語源
東京農大・小泉教授の推論では、薄い酒を呑んでいたのでは?当時の造り方では酒は濃く、問屋で水増しして売っていたのでありえる。
近代の酒飲み大会 昭和2年 熊谷大酒会
参加料2円50銭払い一升呑み、さらに2円50銭払うともう一升呑め、後は飲み放題。
一位は61歳の老人、一斗二升
相撲界にも酒豪が多い、昭和初期の記録だと伊勢の海(1.8升)や常陸山(2時間で8升)等
以上の様な内容です。私は多くても6,7合あたりで酩酊し始めるので、これらの話はただびっくりです。
少々時間が余ったので、今年の新酒鑑評会の結果、高瀬先生の感想などを話されました。
講義の後は、宴会です。ちゃんこ鍋と肴各種。今回は「天青」の杜氏の五十嵐さんがゲストでいらっしゃっていたので、お酒は「天青」を3種。「天青」は呑みやすくて好きなお酒の一つなので、嬉しかったですね。2時間位いたでしょうか。料理もお酒も殆ど食し呑みお店を後にしました。来月も楽しみです、
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